カンボジアでの地雷、不発弾処理の見学、小学校ボランティア

カンボジアといったら、真っ先に地雷が思い浮かんだ。

カンボジアに着いてすぐ、地雷、不発弾処理をしている団体を調べて連絡を取り見学させてもらうことになった。

カンボジアの地雷、不発弾処理のを行なって、自立可能な地域復興支援が行われているのはバッタンバンのタサエン村というタイとカンボジアの国境近くの村だった。

この村は19~1996年まで行われていたカンボジアの内戦の最後の激戦地だった。なのでこの村には多くの地雷や不発弾が多く残る村だった。

地雷や不発弾が多く残っていると、畑をつくり農作物が取れないことにより、カンボジアではすごく貧しい村だったという。

だが今はIMCCDの活動により、地雷、不発弾が処理され、処理されたところに畑、学校、道路が作られ地域復興がされていた。

その地雷除去も村人と一緒になって活動する、自立可能な地域復興支援だった。

ただお金や物を渡す支援は一時的なものになってしまうのではないか、自立しないといけないんじょないかと思った。

本質を考えずに貧しい国に支援をする時ただお金や物だけを支援しているのは、ただの偽善でかっこをつけてるだけだ。おれ支援したんだぜと。何もかっこよくない、何もわかっていない。そう思った。その貧しい国や地域がどうやったら貧しさから抜け出せるのか考えてられていないと思った。

でもそんな人達は日本に多くいた。会社のPRになるからとカンボジアに学校建設をしたが教員が足りず、学校が回らなくなり今では、馬や牛小屋となっているものもあると聞いた。

支援する側にも責任はあると思った。

それを受け取る、支援される側も責任があると思った。

両者が本質を理解している必要があると思った。

IMCCDとタサエン村の人はお互いがそれを理解しあっていた。両者が噛み合っていた。

そのような活動をされてきた団体、村に5日間行かせてもらうことになった。

村に着いたのは昼の1時ごろだった、挨拶や自己紹介を終えた後、すぐ昼食をとった。

昼食は日本の味付けの食べ物だった。日本食を最近食べていなかった自分からすると美味しすぎた。

昼食を食べ終え、宿舎内にあるお酒を作る工場を見学した。

この村の農産物のキャッサバはタイに安価で購入されていたという。そのキャッサバに何か付加価値を付けて販売できないかと考え、村のキャッサバを現地で芋焼酎にしているところだった。

村人を雇用し、給料を渡し、村の農産物を使って販売している。このお酒の工事から地域復興がされていた。

その工場を見学させてもらった。

工場見学を終えた後、村を案内してもらった。

村には元ポルポト兵の人がいた。地雷によって右足がない人、内戦時に受けた銃弾の跡が体中に残っている人がいた。

右足がない人が言っていた、今は右足がないが、ご飯を食べられて、家族と過ごすことができるから幸せだと。そんな幸せを忘れかけていた自分がいたことに気付かされた。

いつ死ぬかわからない状況だった人を目の前にし、自分もいつから死んでしまうそんな当たり前のことを改めて感じた。村を案内してもらったあと宿舎に戻った。

宿舎に帰ると子供達が宿舎に集まってきていた。宿舎内にある小学校に来たのだった。

この村で教育も施し、地域の復興をしていた。ここで日本語を教わった人が、交換留学で日本に行ったこともあるらしい。ここでも地域復興がされていた。

子供達と一緒にスケボーをしたり、ボールで遊んだりした後、ラジオ体操をした。

それが終わるとドッヂボールをし、教室で日本語の授業が始まった。

日本語で自分の自己紹介をして、歌を歌ったり、あいうえおを教えたりした。カンボジアの子供達はすごく元気だった。自分まで元気をもらった。

子供達に楽しんでもらえるよう自分も楽しみ頑張った。子供達にすごく楽しんでもらえ、すぐ仲良くなった。授業が終わってから男の子から花の絵を描いた絵をもらった。すごく嬉しかった。

授業が終わって生徒が帰ると、生徒をまとめている村の人達の日本語の勉強が始まった。

村の人達もすごく考えて行動していた。

それが終わると夕飯を食べてから、寝る準備をきて、その晩はハンモックで眠った。

次の日の朝は5時半に起き、宿舎内にを掃除し、村のはずれにある、工場見学に行った、そこの工場は村の人が働けるようにと日本の企業を誘致して村に建てられたものだった。

そこの工場見学を終えた後、地雷、不発弾の撤去作業の見学をした。

地雷や不発弾は中国製やソ連製のものが多かった。地雷、不発弾説明を終えた後、爆破処理の作業が始まった。

遠くまで離れて見ていたが凄い衝撃だった。

高山さんは地雷、不発弾爆破するため導火線に火をつけまずTNTを爆破させ、その誘爆で地雷、不発弾を爆破させていた。

導火線に火をつけてから爆破するまでの3分間、間違って子供が入ってこないか凄く注意して爆破していた。1回目爆破した時と3000回目爆破する時の緊張感は変わらないと言っていた。

地雷、不発弾処理の見学を終えた後、10年前に地雷撤去作業中に、地雷を爆破させて死んでしまった7人の慰霊碑に行った。

この事故を絶対に忘れてはいけない、辛いから目を逸らしていいものではない。次に同じことを起こさないため、このようなことが後世に残すために慰霊碑を建てたと言っていた。

慰霊碑を正面から見て一番左側には一人分の写真が入るスペースがあった。

高山さんが死んでしまったら、その慰霊碑に7人と同じ所に供養してもらい、天国で7人と再会するためだと言っていた。

宿舎に帰ると1時頃に36人の訪問者が来るとこのこで準備を進め始めた。

高山さんには自分で考えて行動しろと言われていた。

自分で考えて、準備を進めた。

36人の訪問者が宿舎に到着し、高山さんはその人達を案内した。それの手伝いを自分で考えてしなければならなかった。

案内の手伝いを終え、5時になり宿舎に子供達が集まってきた、そこでも自分にできることは何か考えて行動し、その人達、子供達にとっていい経験になるためにはどうすればいいか考えた。

自分で考えて行動するのは大変だった。

夕食を食べ、寝る準備をし、寝床について、また朝を迎えた。いつも通り5時半に起きた。

自分を律することができないと、他者から信頼を置いてもらえないそう高山さんが言っていた。自分もその通りだと思った。

その一環として毎朝5時半起きだった。

36人の団体が帰ると次は20人の団体が来ることになっていた。昨日と同じようにまた考えて行動した。いい経験をしてもらうためには、楽しんでもらうにはなどを考えた。

そのようなことをしているとあっという間に5日間が過ぎ、出発する日になった。

タサエン村の人達、宿舎にいる人達がすごく好きになっていた。

IMCCDの理事長兼現地代表の高山さんは、自ら命を張って地雷、不発弾の除去をし、自立可能な地域の復興支援をしている人です。自ら考えて行動し、平和の種まきをしていました。

とてもかっこよかったです。

このような人になりたいと思いました。

そんな人達と出会いことができ、別れる時はすごく寂しい気持ちになった。

今回5日間タサエン村で過ごしたくさんのことを学ばせてもらった。

自ら本質を考えて行動を起こすことの大切さを一番学んだ。

これらの学びを活かせるよう、これから生きていこうと思った。

タサエン村を離れ、バスでプノンペンに着き、宿で寝床についた。次の日の朝は5時半に起きなくても自分で考えて行動することも少なくなっていた。

だが物凄く物足りなさを感じていた。

僕も国際協力をやりたい、心のどこかでそう思っていたからだろう。

自分が好きな人達、好きになった場所、助けを必要としている人に、自立可能な地域復興支援をしたいと思った。

世界平和のための種まきを自分から考えてしよう、誰かがやってくれるからじゃなく、気づいた自分がやろう。そう心に決めた。

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